野蒜築港は明治時代の国家プロジェクトだった!(2019年更新版)
築港解説プレートにある明治時代の新鳴瀬川市街地の地図
明治時代初期の国家プロジェクト 野蒜築港とは
ここ、宮城県東松島市には、鳴瀬川が流れています。この河口で、明治初期に、とても大きな国家プロジェクトが計画されました。
それは、日本で最初の近代貿易港を作るというものでした。横浜港などが出来る11年前の事です。 地元でも、伝承されている人はないと思いますが、最近、地元のラジオで紹介されていましたので、改めて考えてみました。
このプロジェクトの決定は、当時の内務卿(首相と同じ)の大久保利通の提言でした。なぜ最初の近代貿易港に東北の地に選ばれたかと言うと、 明治元年に始まった戊辰戦争が終結し、東北に生き残った 士族の士気を上げるためのプロジェクトだったとも言われています。
当時は船の輸送時代で、穀倉地帯の米や生糸などを運ぶため、宮城県を流れる、北上川、鳴瀬川、阿武隈川を運河で繋ぐ工事が江戸時代からあった事もあり、地理的に中心にある鳴瀬川の下流の野蒜に国際貿易港を作るという計画は、当時は理に適っていました。
場所が、野蒜地区でしたので、野蒜築港と呼ばれました。また、川の対岸の浜市地区には、電気と下水道が完備した新市街地が作られ、東北の水運と世界に向けた貿易の拠点を作るはずでした。
ただ、「野蒜築港」の言葉ですが、野蒜地区は、川の対岸の海の方の地区なので、わたしは、ここは旧小野村の「小野」と呼びたいです。
台風の襲来とプロジェクト終焉
明治15年 に一期工事の内港の突堤が完成し(実際には完成と言えるものではなかったようです)、それから2年後の明治17年の秋、大きな台風が襲来し突堤が破壊され、復旧には膨大なお金がかかるという事で、このプロジェクト は終焉しました。
もし、完成していれば、現在の横浜港のように、野蒜港が、東北で繁栄していたはずでした。
ただ 2011年の東日本大震災の津波で、この地域は甚大な津波被害を受けましたので、今となっては、この場所に貿易港を置かなかったのは正解でした。
この遺跡は、東日本大震災の津波で被害を受けましたが、現在は、大分復旧され、石碑、工事用ローラーなど、文化財として整備されています。
野蒜築港が残したもの
では幻の野蒜築港は、何を残したでしょうか?。
いろいろ調べてみると、当時としては、最新の土木技術が使われたようで、
土木学会では貴重な遺産として発掘など行われて来たようです。横浜、神戸、長崎の外国人居留地以外で、日本人のための近代下水道施設として稀な遺産との事。
下水道の枝線には近代資材である土管が使用され、土管の接続部やレンガ橋台にセメントを使用していた。セメントを使用した近代下水道史でも貴重な遺産とのこと。
日本ではじめての近代貿易港築港は失敗でしたが、上記のように市街地の下水道の土木技術などは、技術進歩にたいへん役立ったはずです。
実際、その後の塩釜港構築では、外港防波堤を先に作るという手法に活かされていますし、付帯した運河開削工事の完成に活かされています。また、野蒜から山形に向かうために作られた関山峠道の完成など、いろいろなものに役立って来たものも多いです。
この地で、明治時代に大きなチャレンジがあった場所だと誇りに思い、当時の人々(地元の人と地元以外の人)の心意気には敬意を払いたいと思います。
この話、大河ドラマになっても良いテーマですね。 (無理かとは思いますが。。)
下記を参考にさせていただきました。
”幻の野蒜築港 〔明治初頭、東北開発の夢〕西脇千瀬著”
- 出版社: 藤原書店 (2012/12/21)
現在の野蒜築港記念地区の状況(2019年)
内港の突堤が見える所に、この碑があります。東日本大震災の津波で流されましたが、ようやく元の場所に復旧しました。レンガの橋の土台も見れます。明治時代の壮大なプロジェクトの跡が見れます。
このレンガの橋の土台の付近には、解説プレートがなく、見逃していました。
このレンガの土台を見ると、明治時代にタイムスリップします。
東北初の気象測候所の跡地(東北初とはびっくりです)、台風で築港が中止になった後、測候所は石巻に移り、仙台に測候所ができる前の約50年間は、石巻測候所が活躍しました。
新市街地があった、中央に野蒜築港の解説プレートがあります
新市街地を造成した時に使われたと言われるローラー
築港が成功していれば、この旧市街地は、近代文化都市として繁栄していたはず