おらほのおのまち(東松島市小野)

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三浦家の先祖の話

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江戸・明治時代の先祖の墓標は、小野の青木山にありましたが、昭和63年の(功岳寺の)三浦家の墓建て替え時に、これらの墓標を山から三浦家の墓地に移動し供養しました。その祖先をよく知らないまま本日に至っていましたが、今年のお盆にその墓標を清掃したところ、刻印文字が読める事が分かったため、インターネットと母の記憶などから、改めて先祖を調べてみました。その結果、先祖と先祖が生きた時代が少しだけ見えて来ましたので、ここに記録して行きます。

①明治時代の先祖、三浦功の功績とお墓

小野村が出来る前の明治30年代(1890年代)小野本郷の時代です。小野本郷の戸長(こちょう:村長と同等)として奮闘された先祖がいます。その孫に当たる三浦 靱郎〔ゆきお〕(私の叔父)の著書の随筆に、三浦功の功績(私財を投げ打って、小野の橋を完成させたという。)の一節が書かれています。 
 ・三浦功明治37年2月20日没 三浦屋のお墓の奥にあります。
 ・私の亡き祖母三浦さつきの祖母(まつ)と、功の奥さん(ろく)は姉妹です。つまり、功はお婿さんとして小野に来たようです。
 ・同書に、三浦 靱郎の父の三浦吉兵衛(つまり、三浦功の長男)のことも書かれています。吉兵衛は、小野生まれで、ドイツ文学者でした。功績は、鳴瀬町史に書かれています。

三浦 靱郎の回想随筆より

江戸時代末期の先祖、三浦屋惣右衛門の子孫かな?(作成中)

仙台藩伊達政宗がいた時代(嘉永1850年前後)の先祖です。当時、仙台藩には豪商の三浦屋惣右衛門という人がいました。それと名前が似ているため、この親族(孫?)と思われます。なぜ、小野に住んでいたかは想像になりますが、当時、石巻の鋳銭場という硬貨鋳造の施設があり、三浦屋は、その製造を伊達家から委託されていたとの事です。そうなると、仙台から石巻に移動するためには、小野を必ず通ります。ここに子孫が住み着いたとしても、不思議ではないと思います。
また、2016年に公開された、”殿、利息でござる!”の映画(阿部サダヲ羽生結弦など出演)は、吉岡宿場の再生の実話でしたが、出資側の人物として、三浦屋惣右衛門と(養子?の)音右衛門が出ています。ここからも、三浦屋惣右衛門の重要な存在を見る事ができます。

江戸時代初期の芭蕉が歩いた時代の先祖

時代が、江戸時代初期に戻りますが、延宝の1670年前後の先祖です。芭蕉が漫遊した時代です。墓石から、”八鷹”がキーワードになります。この近辺では、”八鷹”は矢本の地域を示します。そこに涌園(円)という施設があったのでしょうか?。禅定門とは、禅に精通した人と言われています。そこの”孝為”という人が先祖でしょうか?。ちなみに、”為”が付くの三浦一族の系統には、為通の系統があります。これは、桓武(かんむ)天皇から来る系統です。でも、定かではありませんので、さらに検証してみます。